極上美の饗宴  希望へ続く道 東山魁夷の東北 ②  新しい首輪

2012年09月30日

極上美の饗宴  希望へ続く道 東山魁夷の東北 ①

東京 千代田区 皇居のお堀端。東山魁夷の描いた数々の傑作が此処に所蔵されています、東京国立近代美術館です。

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縦134Cm、横102Cm 「道」

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昭和25年 東山42歳の作品。東山芸術の出発点であり、戦後の日本を代表する一枚です。大胆にも画面には道だけ、シンプルで一度見たら忘れられない深い印象を与えます。

近づいて見ると地面は思いの外複雑な表情をみせています。でこぼこ、水たまり、わだち 日本画独特の岩絵の具で描かれた土の手触り迄伝わってきます。柔らかな緑が印象的な草むらも草の一本一本まで描き込まれています。

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東山を研究する松本猛さん。単純さと複雑さの対比が魅力的だと言います。シンプルな構図に様々な工夫が凝らされています。道を中心よりやや左側に描き画面右へと視線を誘導します。道の先は右へと曲がり、丘の向こうへとぬけて行きます。まるで何かを物語っている様です。シンプルな道に幾つもの読み解きの仕掛けが凝らされた日本画の傑作です。

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実は此の「道」にはモデルとなった場所があります。青森県八戸市にある種差海岸です。

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太平洋沿い、およそ12キロの海岸線、東山は昭和15年、32歳の時に初めて訪れました。種差海岸は古くから馬の産地として知られ、今も海岸近くの牧場では競走馬が飼育されています。

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種差海岸の自然に魅せられて何度も訪れている人がいます。「旅する作家」として知られりる椎名誠さんです。東北が好きで、その魅力を文章や写真で伝えて来ました。椎名さんは「旅する画家」の東山が種差を訪れ、「道」を描いた事を初めて知り、関心を持ちました。「道」のモデルとなった場所、それは海岸沿いに走る県道1号線の一部でした。椎名さんはその場所を訪れました。

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これが東山が描いた道の今の姿。アスファルトで舗装され、左右には木が生い茂っています。「地形的には登って、右の方に曲がって、同じですよね。そして左右の草の形もやはりここですね。しかしかなり違いますね。木がはぶかれ、道路そのものが昔とは違う質感になっている。絵と現物を見た時はそういう所ですね。時代が質感を変えてしまったのでしょうね。唯この道よりも東山さんの「道」の方が遥かに魅力的ですね。こんな道があったら登っていきたいですね。」さらに椎名さんは重要な違いに気付きました。「道の先、正面の松林の後ろには灯台が立っています。」鮫角灯台、東山が最初に種差に訪れた時は既に存在していました。その頃を撮影した写真が残っていました。道はまだ舗装されていません。

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両側に木は一本も無く,草原が広がっています。木が無い分、今よりもはっきり灯台が見えています。何故 
東山は絵の中から灯台を消したのでしょう。実は「道」が完成する迄に東山は何度も此の場所を描いていました。東山が最初に種差の道を描いた一枚、それは医療情報誌などを出版する会社の資料庫にありました。東山が昭和20年代に毎月、表紙絵を担当していた「保健同人」、結核に関する情報誌です。表紙絵の中にあの種差の風景がありました。「道」の3年前に描かれた表紙絵です。見る人の目は灯台や馬に向かう様に描かれています。道はまだ主役ではありませんでした。さらに翌年、東山は再び種差を描きました 「静朝」です。此の絵からは馬や牛は消えています。しかし道の先の灯台は残った儘です。東山は試行錯誤を繰り返した中で実際には見えていた馬や灯台を消し、最後には道が主役になる様に描きました。いったい何故なのでしょうか。

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名古屋工業大学 大学院教授 松本直司さん、デザイン工学の視点から風景が人の心理に与える影響を研究して来ました。松本さんはこの三枚の内、特に「静朝」から「道」への変化に注目しました。灯台が有るかないかに依って絵の広がりが全く違うと言っています。「「静朝」の方はかなり灯台がはっきり描かれている、此の道の先に灯台があるという事で灯台が目的地みたいになっている。「道」のほうは目標物が無くなる事によって、道がずっと先の方に無限に続いている様な感じが出ています。」灯台があるとあたかも目的地の様に見えます、それを消す事で道はどこまでも続く様に見えるのです。さらに「道」では「静朝」には無い右へのカーブが付けられています。

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「右に曲げる事によってですね、人間の意識がずっと右の方へ流れていく、我々 専門用語で言う期待感ですとか、行ってみたくなるという様な効果が出しています。ここまで行ってみたいな、多分こっちに行くと素晴らしい光景があるんじゃないかという様な事を予見させると言う事がこの絵には表れていると思います。と供に小高い所があって見えなくなり、また見えてくる。完全に見えてしまって無いけれども、何となく予測が出来る、手前から奥の様子が予想出来る、そうすると行ってみたくなる。絶妙な見えている部分と見えていない部分のバランスが行ってみたくなる、期待感をもてる状況を作り出しています。」
東山は道だけを描き未来への期待感、希望を表現しました。何故 東山はこの絵を描いたのか、そこには画家としての成功を目指した苦闘の道のりがありました。東山魁夷 本名新吉は明治41年生まれ、子供の頃から絵を描くのが得意で、18歳で東京美術学校 日本画科に入学し、日本画を学びます。学生時代の作品「焼嶽初冬」

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此の頃は現実の風景をそのまま写し取ろうとうる写実的な作風でした。東山が27歳の時、神戸で船の道具を扱う会社を営んでいた実家が倒産寸前に追い込まれました。家族を支える必要に迫られた東山は展覧会の出品に励みます。しかし権威ある展覧会への出品作が落選、東山は大きなショックを受けます。一方で美術学校時代の同級生達は華々しい成績をあげました。東山は当時の心境をこう書いています。「私の心にはなんとかして展覧会で良い成績をあげたいという願いがあった。商売に失敗した老齢の父、経済的な負担も大きかったから、人の注目を引き、世の中に出たいと思わないではいられなかった。こんな風だから心が純粋になれるはずが無かったのである。」焦りの中で東山は絵の題材を求め日本中をスケッチして周ります。

昭和15年 東山が向かったのが東北でした。秋田の横手、宮城の蔵王などを訪れました。そして辿りついたのが種差海岸でした。当時 種差は馬が放牧され、その風景が多くの観光客を集めていました。東山もおもしろい風景があると聞いて行ってみたのです。あの道も訪れました、しかしこの時はスケッチするだけに留まります。東山はは無く馬を題材にした展覧会の出品作を仕上げました「凪」。

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横3メートル以上ある大作です。日本紀元2600年を祝う展覧会(紀元2600年奉祝美術展)に出品されました。東山は何故馬に注目したのか。戦前の美術を研究する飯野正仁さんは当時の世俗との関係を指摘します。「当時の美術誌には馬は軍馬というイメージで沢山描かれています。これは農耕馬ですね。此の奉祝展の馬の絵を見ますと。軍馬が描かれるか、日本で農作業に従事している馬、戦争に役立つか生産に役立つかととい馬が描かれています。」

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昭和12年に始まった日中戦争を契機に国内は戦時色が強まっていきます。戦争や生産活動に役立つ馬が絵の題材として好まれました。東山は時流にのって成功を目指したと考えられています。なんとしても成功したいと馬を描いた東山、しかし画家として名をあげる事は出来ませんでした。そんな東山をさらなる困難が待ち受けていました、太平洋戦争です。東山は終戦まぎわの昭和20年7月に召集令状を受け取ります。本土決戦に備え厳しい訓練が始まります。与えられた任務は敵の戦車が来た時、その車体に爆弾を取りつけるという危険なものでした。東山は死を覚悟します。二度と絵筆を取る事はない、絶望の淵にあった東山はある日衝撃的な体験をします。遠くに連なる山並みを見て、それまで何気なく目にしていた風景が突然まったく違うものに見えたのです。
「今まで旅から旅をしてきたのにこんなにも美しい風景を見たであろうか。おそらく平凡な風景として見過ごしてきたのに違い無い。これを何故描けなかったのだろうか、今はもう絵を描くという望みはおろか、生きる希望も無くなったというのに。もし万一再び絵筆を取れる時が来たなら、私はこの感動をいまの気持ちで描こう。」この時 風景は東山の目に圧倒的な性の輝きを放ったものとしてうつりました。風景は見る者の心を映し出す鏡だと気付いたのです。

やがて終戦。東山は千葉の市川で活動を再開します。しかし戦争を挟んだ数年の内に両親、兄弟が相次いで亡くなり東山だけが残っていました。一人 画家としてこれからどう生きてゆけばいいのか。その時 東山の脳裏に一つの風景が浮かびました。「ひとすじの道が私の心に在った、夏の早朝の野の道である。青森県種差海岸の牧場でのスケッチを見ている時、その道が浮かんできたのである。正面の丘の上に見える牧場のスケッチ、その柵や放牧の馬や灯台をとり去って、道だけを描いてみたらと思いついた時からひとすじの道の姿が心から離れなくなった。」

昭和25年 東山は再び種差へと旅に出ます。当時 水害で八戸へと向かう東北本線が不通になっていました。東山は日本海側から迂回してでも目指しました。ひたすら一本の道を描きたいという思いからでした。何故 東山は種差の道を選んだのか、椎名さんは現地にいってみて初めて気付きました。「そうとう強いインスピレーションがあった事は確かですね。右におれてゆく所がありますよね、見る者に何かを考えさせるような情景、その事によって此の道が選ばれたのではないでしょうか。」 画家として未来を切り開きたいと言う切なる希望、東山はそれを東北種差の風景に託したのです。


極上とっておきポイント  知られざる東北のスケッチ
東山の知られざる東北のスケッチをご覧頂きましょう。長野県にあるこの美術館(長野県信濃美術館 東山魁夷館)は日本最大の東山コレクションを誇ります。画家が東北を旅して描いた貴重なスケッチ6点を特別に見せて貰いました。これは秋田県南部横手の風景を描いた一枚です。雪が降り積もる中、小さな駄菓子屋に子供達が思わず駆け寄った光景でしょうか。微笑ましい姿を明るく表しています。スケッチはどれも雪景色と此処に生きる人々の暮らしがテーマです。東北の冬の風景に魅せられた東山はこんな文章を残しています。「私は酔ったように雪の街を歩く、容赦なく吹きつける雪がむしろ心地よい。あちこちのかまくらを覗くとどこも同じようで中には水神様と書いた札を祭ってあるものもあれは何もなく蝋燭だけのところもある。歩きながら私は思わずつぶやいたこんな美しい物がまだこの地上にあったのか。」冬の厳しさに耐え、逞しく生きる人々、画家の心をうった東北の美です。

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横手にて

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雪の山村

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雪国

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東山魁夷の「道」を生んだ青森 種差海岸、椎名さんは画家が周りの風景だけでなく、道そのものを現実から大きく変えている事に気付きました。「実際の坂よりも絵のほうが勾配が急に見えるという事が非常に特徴的で、どうしてこんな急な勾配にしたのかも一つの謎ですね。こんな急な坂の方が意味が深くなってゆく様な気がしますね。」

実際の道より絵の道の方がはるかに急な上り坂に見えます。何故 東山は道の勾配を急にしたのか。名古屋工業大学の松本さんは勾配を計算によって割り出しました。「道」とその2年前に書いた「静朝」を比べて理由を探ります。

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まずは「静朝」をコンピューターグラフィックで立体化し真横からみると勾配は0・5度、ほぼ平坦と分かりました。一方「道」はどうでしょうか。真横から見ると勾配は5.8度でした。「道」のほうが「静朝」より勾配が急だとわかりました。しかもその角度は人に期待感を抱かせる絶妙なものだといいます。

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「人が坂道を登る時4度以下だとそんなに坂道を登っているという感じがしない。でも7度以上ですと非常に登っている、きつくなるわけですね。此の絵ですと5.8度と言う事ですので登っている感はあるけれどもそんなにきつくない坂なのです。期待感という意味ではあまりていこうの無い、それより登り感のある坂道、勾配が描かれています。」さらに松本さんは画面の切り取り方にも注目します。「静朝」で横長だった画面は「道」では縦長になっています。松本さんは此処に秘密があると言います。「道を描くと当然こうなりますので、道を強調すると周りは必要なくなるので、周りはいらないわけです。ですから縦長になって、掛け塾の様な風景になっているのです。」

江戸時代前期の絵師 久隅守景の山水画(夏景山水画)です。風景を題材にした伝統的は掛け軸は縦長の画面を下から上へと順に鑑賞してゆきます。一番下には見下ろす様に描かれた手前の岩場、上に視線を移してゆくと川の中流に橋がかかっており、そして山の上には庵があります。掛け軸は此の描き方で近くから遠くへ旅してゆく感覚を表現しています。

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「道」も掛け軸と同じ効果を狙っていると松本さんは考えます。でこぼこやわだちの土の質感がこまかく描きこまれた画面下。鑑賞者はそこに自らの足元を重ねます。そして上に向かって絵の中の道を歩いて行くのです。「時間軸を考えて描いたのではないでしょうか。足元の方は今の自分の状態、あるいは過去の状態。登って行くにしたがって未来を感じながら描いたと思われます。これから先は未来の明るい状況が見えてくると、その様に思います。」「彼は戦争の時も大変苦労したのでその経験を経て現在、未来に向かって進んでゆこうという所を画に表したかったのではないかと。未来を象徴する様な、未来を感じさせる楊な、そういう所を描きたかったのかなという感じがします。」

東山が試行錯誤の果てに描きあげた未来へ続く道。此の絵が生まれた背景には東山個人想いだけでは無く、時代が深く関わっていると考える人がいます。大阪市立美術館館長 篠雅寛さんです。「魁夷の場合ですね。新しい日本をこれから日本画家の立場か作って行くんだといった、つまり時代の背景と供に進んでいくといった所がありますね。」

「道」が発表された昭和25年、終戦から5年 焼け跡から復興に励む人々もようやく明るい未来が見え始めた頃でした。そんな時代に登場した「道」 人々はそこに新しい日本への希望を重ね合わせました。美術評論家 松本猛さん「此の絵の前に立った人達、この絵を目にした人達は正にこれは自分の道だと思ったと思います。当時の日本 「さあこれから復興して行こう、自分の道を切り開いて行かねばいけない」という思いがここに繋がったのでしょうね。」 風景画家 東山魁夷の名を一躍とどろかせた「道」 それは戦後まもない日本、一足一足どこまでも進もうとする人々の希望の道となったのです。


極上とっておきポイント  東山が愛した意外なもの・・・
ボートを楽しむ風景画の巨匠と思いきや、ここは自宅の庭 漕いでいるのはボート型のトレーニングマシン、実は東山は体を鍛える事に人一倍熱心でした。自宅のアトリエにも仕事の合間に使っていたこんな物が残されています。此のベンチの様な大はいったい何なのでしょうか。許可を得てヂレクターが使わせて貰いました。実はこれは腹筋運動のものでした。

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世界中を旅する風景画家には体力作りが不可欠だと東山は考えていました。日頃の健康管理にも気を使っていました。毎朝2時間ある体操を日課にしていたといいます。その名もデンマーク体操。北欧デンマークで厳しい冬を健康に過ごせる様考案されました。音楽に合わせて体を動かす事で柔軟性や血行を促進する効果があると言います。此方は84歳の堀内活二さん、この体操が縁で東山お交流がありました。いまも画家の言葉を覚えています。「朝かならず起きてから体操をする、それが絵の上達につながる」良い絵を描くにはまず体力から。日頃の努力が風景画の巨匠を生んだのですね。



              極上美の饗宴  引用
































crystaltakara at 15:20│Comments(0)TrackBack(0)

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