初 気功寄せ植え 三点

2012年05月24日

美の巨人たち  尾形光琳作 松島図屏風

アメリカ ボストン美術館 19世紀末から日本美術のコレクションに力を入れて来た此の美術館にその絵はあります。今日の一枚 尾形光琳作 松島図屏風、大きさ縦1m50cm 横3m67cmあまり。大胆にして緻密、絢爛豪華な屏風に躍動しているのは黄金の波です。泡立ち砕けるそのうねりの激しさを感じさせます。その中で微動だせづ浮かぶ島が三つ。濃淡さの中にある緊張と躍動、加えてなによりその強烈な色彩。金れい、銀れい、墨の重ね塗りに胡粉がまぶしい波.。緑青の松と島、茶の中に一際鮮やかに群青が映えています。一歩間違えればけばけばしいだけの色彩が絢爛で雅な世界を生み出しているのです。でも良く見ると変なのです 描き方が。波は模様の様に画面全体に広がり、いかにも上空からの視点で描かれています。ところが埋め尽くされている波の中に聳える島は真正面から捉えられているのです。写実を無視する様な大胆な構図。その狙いは何なのか。

024

026

028

030

032

034

036

尾形光琳は江戸中期、京の町で一躍人気をはくした琳派を代表する絵師です。そもそも琳派とは桃山から江戸時代にかけてまったく違う時代を生き、あってもいない者同士がその技法、精神を継承した奇跡の系譜です。その発端は桃山から江戸時代にかけ京で活躍した俵屋宗達です。宗達は本阿弥光悦と斬新なデザイン感覚の美術作品を生み出しました。その80年後の元禄時代に尾形光琳が宗達を継承して意匠美を完成させます。そしてさらに100年を経て酒井抱一が情緒豊かな江戸琳派を開きます。これがおおよその琳派の流れです。

038

ところが琳派は江戸幕府の衰退と供に忘れ去られて行くのです。明治にはいりその琳派を救った外国人がいました。アーネスト・フェノロサ、ボストン美術館 日本美術部長を務めた男です。来日したのは明治11年。

042


尾形光琳の「松島図屏風」は江戸中期18世紀の始め頃に描かれたもの。その絢爛豪華な屏風絵は見る者を釘づけにしました。この豪快なデザインに込められた海外でも絶賛をはくした琳派の真髄とは何なのか。さらに此の絵より80年前に同じ題材で描いた屏風絵があるのです。光琳の前に描かれた屏風の正体とは。

燕子花の美しさを大胆に描いた作品があります。国宝「燕子花図屏風」、尾形光琳の代表作です。緑青と群青、極端んに抑えた色数で描いた雅な燕子花。繰り返す同じ図柄のリズミカルな配置と金箔の持つ強さが相俟っている単純明快でありながら深い画面が広がっています。

046

今日の一枚はそれから10年程後に描かれた作品です。円熟期にはいった光琳の力量がいかんなく発揮されています。その審美眼は独創的なものでした。

京都で生まれた尾形光琳、家は大棚の呉服商、放蕩三昧の日々を送り、ついに破たん。絵の道を志すのは30を過ぎてからでした。当初 狩野派に入門しますがそれでは飽き足らず独学の道へ。気に入った手本は80年程前に京都で活躍した俵屋宗達のものでした。何故そうだったのか。光琳研究で知られる実践女子大学 教授 中町啓子さんに聞きました。「俵屋宗達が江戸初期に展開した京都の上層町衆達文化というものに実は光琳のおじいさんの世代も一緒に参加していたわけです。ですから光琳の家には宗達の屏風や光悦の蒔絵などが当然の様に所蔵されていて、光琳は小さい時からそういう物に触れていて、それが自分の一つの文化として共有していたと思います。」

在原業平が描かれた宗達の歌仙絵の一部です。それを光琳が模写した画法が残っています。光琳はまず原画に忠実に描き、次に袖口の柔らかなライン、表情に工夫を加えています。

050

そして絵師を志して僅か10年で朝廷から優れた絵師の称号「法橋」を与えられ、京都 西本願寺より注文を受ける事になります、それが「燕子花図屏風」でした。光琳はこれを期に死ぬまで10年あまり代表作となる作品を次々と手懸けます。その中の一枚が「松島図屏風」でした。

052

俵屋宗達の「風神雷神図屏風」それ迄千手観音の守り神として扱われて来たモチーフを宗達が独立させ図案化させたものです。

056

その風神は琳派の画家達によって次々に模写されています。

058

尾形光琳

060

酒井抱一

一つのモチーフで鮮烈な印象を与える手法は脈々と続く琳派の伝統とも言えます。琳派とは継承の芸術。時代を越えてモチーフを共有しその意匠を繋いで来たのです。

大阪 堺の祥雲寺、江戸時代初期に沢庵和尚が開山の名所。此の寺に明治の始め迄 ある屏風がありました。俵屋宗達作 「松島図屏風」 打ち寄せる波に蓬莱山にみたてた島が聳える屏風です。

062

002


もうお気づきでしょう、そうなんです実は光琳は此の屏風を見て「松島図屏風」を描いたのです。宗達の屏風は二隻の物でしたが、光琳は独自の構図で一隻だけを描き、六曲の屏風に仕立て上げました。描き方も宗達に習い金でいを使い宗達のよりも濃厚に墨で線を描く事に依って、大きくくっきりとした姿に。比べてみると光琳の波は躍動感に溢れています。

012

一方波間に聳える島はデホルメされた様な単純でいてゴツゴツとした表現で描かれています。

014

光琳と宗達の違いは何なのか、絵画に詳しい秋田県立近代美術館 館長 河野元昭さんは「ズバリそれはデザイン性です。非常にクリアなモチーフと言う点では一番はっきりしているのは波、波頭です。あれを見てみると宗達の波と比べて光琳はよりクリアに視覚に入って来ます、見る者に第一印象で入ってくる様に光琳化していると言って良いと思います。」 実践女子大学 教授 中町啓子さんはさらにこう指摘します「宗達に無い様な造形的な強さ、屏風を正面から見た時の正面感の強さとか、屏風を平面としてパリッと際立たせる様な構成感覚の強さ、そういう物は光琳の方が優れていると思います。」

改めて今日の一枚を眺めて見ると波はまるで上空から眺めているかの様に画面を埋め尽くしています。一方島は正面から捉えて、どっしりと描かれています。一つの画面に二つの視点が同居しているのです。此の視点の違いが宗達とは明らかに違う魅力を光琳の作品に与えているのです。それはセザンヌの絵画を彷彿とさせます。対象を様々な角度から見つめ一つの画面に再構築したセザンヌ。19世紀末のフランスでセザンヌが挑んだ事を光琳は18世紀初めの日本で実にさらりとやってのけていたのです、まるで時代を先取りするかの様に。

016

「松島図屏風」実は日本三景の松島を描いた物ではないのかもしれないと言うのです。では一体どこを描いた物なのか。安芸の宮島、丹後の橋立と並び日本三景と称される陸奥の松島。松を抱いた奇岩の島が無数に並ぶ様は多くの絵師や歌人の心を多く捉えて来ました。ところが光琳の「松島図屏風」はその松島を描いた物では無いと言うのです、ではどこを描いたものなのか、何故「松島図屏風」と呼ばれているのか。尾形光琳の「松島図屏風」、波が躍動する大海原に松を抱いた島が並ぶ正に松島を連想させる大画面です。その謎を解く鍵は宗達の松島図の由来にあります。此の絵は堺の豪商が開眼という号を授かった祝いに祥雲寺に奉納する為に宗達に依頼し描かせたと言われています。古来 海、島、砂浜に松を描いた屏風は祝い事を表すとされていました。宗達は伝統的な題材を描いているのです。さらに宗達の屏風絵は「荒磯屏風」と呼ばれていたとも言う説があります。荒磯とは古くから波の文様として知られたモチーフでした。では何故それが「松島図屏風」と呼ばれる事になったのか、それは光琳から100年程後の事です。「江戸時代の後期になって酒井抱一が光琳百図と言う物を編集しました。その中に光琳の松島図が出ていて、それに松島と描いてある訳なんです。ですからそれ以来、皆この屏風を松島図と呼んで来た訳なのです。」

020

022

お祝の為に描かれた屏風絵を光琳は大胆にも模写してよりデザイン性の高い作品に仕上げました。その才能は江戸の世に琳派と言う斬新な会派を繁栄させていったのです。

ところで「松島図屏風」を手にいれたフェノロサはボストン美術館 日本美術部長に就任しました、そして琳派は世界に響き渡る事になります。その時世界に知らしめたのが今日の一枚「松島図屏風」でした。西洋に負けない国作りを目指していた当時の日本に独自の伝統美術が世界に通用する美の水準を持っていると言う自信を与えたのです。

ふと覗けばどこまでも続く黄金の波、波間にどっしりと聳える緑青の島。それは1000年の都に受け継がれて来た雅へのいざない。日本美術史に燦然と輝く美の系譜は明治に入り此の一枚によって蘇りました。尾形光琳「松島図屏風」 世界が注目した継承の美です。





                   美の巨人たち  引用





















crystaltakara at 17:11│Comments(0)TrackBack(0)

トラックバックURL

コメントする

名前
URL
 
  絵文字
 
 
初 気功寄せ植え 三点