初寄せ植え 2012平泉 よみがえる黄金都市 ~奥州のグローバルシィティー 全貌に迫る~ ③

2012年01月08日

平泉 よみがえる黄金都市 ~奥州のグローバルシィティー 全貌に迫る~ ②

平泉町北部にあるヤナギ之御所から藤原氏と宋の深い結びつきを示す品がみつかりました。

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青白磁椀、当時磁器は宋でしか作る事が出来ず、貴重で高価な物でした。

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こちらは白磁の四耳壺、耳の様なとっきが四つ付いています。宋との貿易港であった博多で出土された壺です。

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福岡県・博多、宋の磁器はここから平泉に渡りました。博多の住宅街にある博多遺跡。宋の商人達が築き、藤原氏の時代12世紀に栄えたチャイナタウンの後です。出土した人形、茶碗、そして宋銭。宋との貿易はそれまで朝廷の厳しい管理下にありましたが、此の頃チィナタウンで自由に商売をする様に変化していました。盛んに博多を訪れる宋商人、藤原氏は新しい時代を捉え、金を元手に独自に宋の商人と交易していたのです。藤原氏は博多から瀬戸内海、太平洋を経て平泉に至る海上ルートを築いていたと考えられます。

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太平洋からは北上川を遡り平泉に宋の品を運んでいました。世界の富を集めた平泉、人口10万の東日本最大の都でした。発掘成果や歴史書を基に町の様子を再現しました。町の南をはしる大通り、道幅は30メートル、此処を牛車が盛んにいきかったと言います。数十件の高やと呼ばれる倉が建っていました、正倉院と同じ、校倉作りの倉は高床式。ここに象牙、中国の織り物 蜀紅錦、貴重な漢方薬 牛王など世界の宝物が納められていました。

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また北部にある柳之御所、ここで藤原氏三代が政治を行いました。発掘では御所を囲む幅14メートルもの巨大な堀の後が見つかりました。さらに関係者を驚かせたのがこの素焼きの土器「かわらけ」が20万枚も出土したことです。宴会で使われていた使い捨ての器です。

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宴と政治の場であった柳之御所、中心には東西に二つの建物がありました。東の建物は奥行24メートル、藤原氏は各地の家臣を呼び集め、指示を与えた後、此処で宴を開いていたと言われます。西の建物は都の役人や使者などの身分の高い客をもてなすのに使われたと考えられています。客は宴会でもてなし、各地の特産品を贈りました。都への従順な姿勢を示し、関係を良好にしょうとする目的がありました。交易で得た豊かな富を背景に藤原氏は東北にかってない安定を齎したのです。


中尊寺の境内を通るこの道、ここは藤原氏の時代、東北を南北に貫く一大幹線道路でした「奥大道」と呼ばれ、北は青森にまで続いていました。当時この道にはある珍しい物がたっていました。「笠卒塔婆」といわれ、藤原清衡が建てたものです。中には金色の「阿弥陀如来」がはいっていました。おそらくはこの道をいきかう人々の安全を祈る道標だったのではないでしょうか。

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藤原氏はこの道を使って青森、北海道、さらにはその先の大陸とも繋がる壮大な交易をしていた事が最近の研究で明らかになりました。その北方交易ルートの鍵となる品が弓矢の矢羽に使われた、ある鳥の羽でした。藤原氏の北方交易ルートを追いました。

京都の時代祭、ここに藤原氏の北方交易を探る手がありました。この祭りでは時代ごとの風俗を再現した行列がねり歩きます。威厳を湛える武官、背中におう矢には特別な鳥の羽が使われていました。平安時代の武官で身分の高い人はオオワシの羽を使いました。

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オオワシは主に中国東北部やロシア東部、北海道に生息する鳥です。平安時代、珍重されたのはその尾羽です。大人の鳥では白ですが、若いうちは白と黒の美しい斑紋があります。東京、明治神宮、由緒ある弓道場があります。ここに今は天然記念物の為、捕獲が禁止されているオオワシの矢羽が大切に保管されています。これがオオワシの矢羽。白い地に浮かぶ斑紋は一枚ごとに異なります。

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根基に黒い斑紋のある羽は「元黒」と呼ばれました。

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都の人々は斑紋で羽を分類し、名前をつけて愛でていたのです。此の細めの羽は「石打」14枚ある尾羽の両端にあり、オオワシはこの羽で地面を打ち、飛び立ったので此の名前が付けられました。羽は複雑に分類され、どれだけ貴重な物をもっているか、貴族、武士は競い合いました。此のワシの羽を都に贈っていたのは藤原氏だという記述があります。鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」に依れば、藤原清衡の息子基衡が京都の物資にワシ100羽の羽とアザラシの皮60枚を送っています。アザラシの皮は武士の馬を飾る装飾品をして珍重されました。藤原氏はこうした北方の特産物をいったいどうやって手に入れていたのでしょうか。

その重要な輸送路となったのがここ中尊寺の境内を走る道、すんわち奥大道です。中尊寺に伝わる国宝の曼荼羅、塔の姿を金色のお経の文字で表した大変珍しい物です。

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国宝 金光明最勝王経金字宝塔曼荼羅図

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ここに奥大道に立つ笠卒塔婆が描かれてあります。金色の阿弥陀如来のいる笠卒塔婆、この笠卒塔婆が奥大道にはおよそ100メートル毎に建てられています。仏たちが守るこの道は藤原清衡が最も力をいれて整備した街道です。

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平泉を中心に南北にのび北方の特産品が運ばれていた奥大道。北は250キロ先の外ヶ浜、現在の青森まで達していました。

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東北新幹線、青森駅の傍で2003年ある遺跡が発見されました。ここから藤原氏とこの地の特別な関係を示す品が発見されたのです。特に注目されたのが「かわらけ」です。

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平泉では政治に関わる宴で使用されていた此の器、それが大量に見つかったことから藤原氏の関係者が此処に滞在していたと考えられます。その目的がかっては川幅の広かった新城川にありました。オオワシの羽などは一旦青森に集められ、平泉に渡っていたのです。ではいったいどこから青森にやって来たのか。その手掛かりとなる発見が今年北海道にありました。北海道、厚真町はアイヌの人達の交通の要所でした。ここから出土した品が藤原氏と繋がりのあることが確認されたのです。それは50年以上前に発見されながら用途が分からない謎の壺でした。ギザギザに欠けた口は意図的に打ち砕かれた様です。こうした壺は全国的にも極めて珍しい壺です。それが今年、平泉で同じ状態の壺が見付かっていた事が分かりました。壺は二つとも口がギザギザに欠けています。こうした壺は平泉では大事な経典を入れて地中に埋め、極楽往生を願う為に使われました。そうした習慣を持つ藤原氏所縁の人達が此の地で暮らしていたと考えられます。

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では何故この北海道まで来ていたのでしょうか。中世のアイヌの人々を描いた絵です。男達の肩や腰を沢山の羽が飾っています。オオワシの羽だと見られます。アイヌの人達のオオワシの羽、それを藤原氏は銅椀などと交換し手に入れていたと言います。

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では藤原氏がアイヌの人達から手に入れていたオオワシの羽は何処から来たのか。そのヒントとなる古文書が保管されています、「中尊寺建立供養願文」。藤原清衡が中尊寺を建てた時、その思いを記した物です。そこには清衡自らの影響力の及ぶ地を記しています。「大陸やサハリンに住む民が私に従っている」。藤原氏は大陸の人々とも繋がっていたと言うのです。あのギザギザの壺が見つかった北海道・厚真町、ここに二年前研究者を驚かせたある出土品が保管されています。藤原氏の時代、12世紀の遺跡から見付かった「矢じり」、その形が極めて独特だと言います。日本の一般的な矢じりと比較してみると一見ほとんど変わりません。しかし断面を見ると一般的な矢じりが単純な楕円なのに対し、今回見っかった矢じりはZ字形をしています。それが昨年、同じ形の矢じりが発見されていた事がわかりました。東から遠く1000キロ離れたロシア、アムール川流域のナデジンスコエ遺跡です。

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ナデジンスコエ遺跡の矢じり、厚真町の矢じりと比べると断面は確かに同じZ字形をしています。しかも此の形の矢じりは世界でもアムール川流域にだけ出土している物でした。この事実は東を経由して平泉と大陸を結びつける一本の道筋を浮かび上がらせました。オオワシの羽を求めた藤原氏、その眼差しは平泉から青森を経て北海道へ、そして遠く大陸をも見据えた物だったのです。

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初代藤原清衡はどの様な思いで平泉を築いたのでしょうか。清衡の思想の大事なポイントがあります「仏国土」。仏が守る、平和で豊かな国土と言う意味です。清衡はこの「仏国土」を平泉・東北に打ち建て様としました。世界文化遺産に登録されたのも此の思想が高く評価されたからなのです。次は清衡の思想、驚くべき人生に迫っていきます。




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crystaltakara at 17:56│Comments(0)TrackBack(0)

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