2012年01月

2012年01月13日

素晴らしい 整骨院さん

昨年の暮より足首が痛くなり、何時もの事と思い湿布で治そうと毎日湿布を貼っていました。ところが年が明け、初詣に出掛けてから痛みが深刻化し、びっこをひいて歩いていました。あー今年はどうなるのかしらとため息ひきりでした。

今年、初めてジムに行った日に「そういえば、ジムの中に整骨院さんがあったはず」と思い、さっそく診ていただきました。

院長さんが「前に此方の足は怪我をした事があるのでしょう」とおっしゃいました。そういえば以前スキーで捻挫をした事のあるのを思い出しました。「骨が離れてしまっていて、痛みがあるんですよ」との事。ちょっと触っただけで分かるんですね、驚きました。

骨の調整をして戴いて、電気をかけて、テーピングをして戴きました。それが6日の事です。

良くなるまで長いのかしらと心配していたのですが、なんと今日(13日)テーピングがとれ、痛みがすっかり消えていました。

その間も、体の一部が悪くなると、肩こりや首のこりなどが激しくなるとの事でその部分をマッサージしていただいていました。マッサージして戴くと本当に体が軽くなりました

今日はジムより足取り軽く(笑い)帰って来ました。

整骨院さんに伺ったのは初めてでしたが、その素晴らしさに感動しました。






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2012年01月10日

平泉 よみがえる黄金都市 ~奥州のグローバルシィティー 全貌に迫る~ ③

金色堂中央の須弥壇、およそ2メートル四方に十一体の仏像。金の仏像が密集する空間です。特に目を引くのが左右に三体づつ、合わせて六体もの地蔵菩薩がいることです。

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地蔵菩薩は死後成仏出来ない、彷徨う人間を救います。そこには救いを求める清衡の強い願いが託されています。須弥壇の棺で眠る清衡、その人生は想像を超える苦難に満ちたものでした。

平安時代、東北の陸奥の国は朝帝が派遣する長官、陸奥守の支配下にありました。地元の人々は「えにし」と呼ばれ、服従を誓わされていました。11世紀の半ば陸奥守の役所に一人の役人が遣わされてきました。後の清衡の父となる藤原経清、経清は役人として働き、厳しい現実を目にします。それは豊富な金など特産品の多くが都へと運ばれ、地元に生かされる事の無い実態でした。そんな中、経清は地元の娘と結婚しました。娘は陸奥の国最大の阿部氏の直系、二人の間には後継ぎの男の子も生まれました、後の清衡です。1051年地元で勢力を拡大していた阿部氏を朝帝が制圧しようとし戦が始まりるます。前九年戦争です。経清は悩んだ末に身内となった阿部氏と供に陸奥守に戦いを挑みます。しかし次第に兵力を増した朝帝軍は1062年ついに阿部氏の軍隊を打ち破ります。朝帝を裏切った経清に陸奥守は無残な最期を遂げさせます。「鈍刀をもってようやくに切る」錆びて切れ味の悪い刀を使い経清の首を少しづつ切り裂いていったのです。此の時、息子清衡は7歳、幼い心に刻まれた父のあまりの惨い死でした。此の合戦で阿部氏の一族は滅亡。朝帝軍に協力した清原氏に阿部氏の勢力範囲が与えられます。この清原氏に清衡は引き取られました。母親が清原氏の妻となったからです。

1083年27歳になった青年清衡を巻き込んで再び大きな戦が起こります。清原家の跡取りをめぐった戦い、後三年合戦です。清原家の実子家衡と連れ子である清衡は同じ母を持つ兄弟と戦います。清衡の屋敷を襲撃した家衡は清衡の妻と子、家来達を焼き殺します。一人難を逃れた清衡はその後巻き返し、家衡を打ち破ります。1087年清衡は奥州最大の豪族の当主となります、そして誕生するのが奥州藤原氏です。しかしそれ迄の30年清衡の半生に付きまとって来たのは激しい戦いと無数の死でした。父や妻や子を殺され、大事な家臣や罪も無い民が命を落とす日々を送り続けて来たのです。

此の経験をふまえ、清衡が作り出した町が平泉でした。中尊寺を立てた時の清衡の言葉には死者への鎮魂と平和への思いがこめられています。「鐘の音の功徳はあまねく平等で辺境の地の捕虜も区別は無い。人は誰でも死ぬ、鳥、獣、魚も生あるもの皆、死は免れないのだ」。

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盛岡在住の小説家・高橋克彦さんです。高橋さは藤原氏の歴史を調べ、その激動の歩みをその小説「炎立つ」で描きだしました。

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清衡は未知の国・「仏国土」、仏が守る豊で平和な国を築き上げようとします。その最初の礎が中尊寺です。数多くのお堂や塔がひしめく一大伽藍でした。

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その大事業の末に金色堂を建てたのは1124年の事です。金色堂は山の頂に覆うものも無く建てられ、あらゆる所から望む事が出来ました。清衡の願いは東北全土へと広がって行きます。奥大道には阿弥陀の居る五千本の笠卒塔婆、さらに東北の一万を超える村全てに寺を立てました。寺院には信仰に加えもう一つの意味もありました。都から平泉に入った旅人がまず出会うのが巨大な南大門が聳える毛越寺。中に入ると出迎えるのは広大な池、その先の本堂は左右の回廊がさらに手前にのびる独特の構造です。京都に天皇が建てた最新モデルの寺に習った物です。毛越寺は都の人々を驚かす様々な工夫に溢れた寺でした。世界遺産に登録された毛越寺、伽藍は失われましたが池はかっての儘に残り、極楽浄土の池を他に例のない程の規模で表したのです。

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また国内にその名が知られたのが無量光院です。幅60メートル、宇治の平等院鳳凰堂を写しながら一回り大きく作られました。本尊は極楽浄土の主、阿弥陀如来。この寺には人々に浄土の世界を体験させる究極の仕掛けが施されていました。西に聳える金鶏山。寺から見ると年に二回この頂に夕日が沈みます。この時お堂の前に立つと夕日は阿弥陀如来の真上に沈みます。金の光に包まれ、人々は遥か西方にある極楽浄土と一つになるのです。「仏国土 平泉」 それを訪れた人々は深く心に刻みます。

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金色堂に施された工芸技術の素晴らしさ、南北交易への驚きどれも見応えのあるものでした。しかし私の心に一番感銘を与えたのは清衡の苦難の人生の上に誕生した「仏国土」と言う思想でした。家庭から世界迄此の思想が行き渡っていたら日々の暮らしは幸福に包まれるのではないでしょうか。世界遺産に登録されたのが「仏国土」と言う思想にあったと言う事がですが、頷けます。



               平泉 よみがえる黄金都市  引用



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2012年01月08日

平泉 よみがえる黄金都市 ~奥州のグローバルシィティー 全貌に迫る~ ②

平泉町北部にあるヤナギ之御所から藤原氏と宋の深い結びつきを示す品がみつかりました。

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青白磁椀、当時磁器は宋でしか作る事が出来ず、貴重で高価な物でした。

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こちらは白磁の四耳壺、耳の様なとっきが四つ付いています。宋との貿易港であった博多で出土された壺です。

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福岡県・博多、宋の磁器はここから平泉に渡りました。博多の住宅街にある博多遺跡。宋の商人達が築き、藤原氏の時代12世紀に栄えたチャイナタウンの後です。出土した人形、茶碗、そして宋銭。宋との貿易はそれまで朝廷の厳しい管理下にありましたが、此の頃チィナタウンで自由に商売をする様に変化していました。盛んに博多を訪れる宋商人、藤原氏は新しい時代を捉え、金を元手に独自に宋の商人と交易していたのです。藤原氏は博多から瀬戸内海、太平洋を経て平泉に至る海上ルートを築いていたと考えられます。

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太平洋からは北上川を遡り平泉に宋の品を運んでいました。世界の富を集めた平泉、人口10万の東日本最大の都でした。発掘成果や歴史書を基に町の様子を再現しました。町の南をはしる大通り、道幅は30メートル、此処を牛車が盛んにいきかったと言います。数十件の高やと呼ばれる倉が建っていました、正倉院と同じ、校倉作りの倉は高床式。ここに象牙、中国の織り物 蜀紅錦、貴重な漢方薬 牛王など世界の宝物が納められていました。

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また北部にある柳之御所、ここで藤原氏三代が政治を行いました。発掘では御所を囲む幅14メートルもの巨大な堀の後が見つかりました。さらに関係者を驚かせたのがこの素焼きの土器「かわらけ」が20万枚も出土したことです。宴会で使われていた使い捨ての器です。

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宴と政治の場であった柳之御所、中心には東西に二つの建物がありました。東の建物は奥行24メートル、藤原氏は各地の家臣を呼び集め、指示を与えた後、此処で宴を開いていたと言われます。西の建物は都の役人や使者などの身分の高い客をもてなすのに使われたと考えられています。客は宴会でもてなし、各地の特産品を贈りました。都への従順な姿勢を示し、関係を良好にしょうとする目的がありました。交易で得た豊かな富を背景に藤原氏は東北にかってない安定を齎したのです。


中尊寺の境内を通るこの道、ここは藤原氏の時代、東北を南北に貫く一大幹線道路でした「奥大道」と呼ばれ、北は青森にまで続いていました。当時この道にはある珍しい物がたっていました。「笠卒塔婆」といわれ、藤原清衡が建てたものです。中には金色の「阿弥陀如来」がはいっていました。おそらくはこの道をいきかう人々の安全を祈る道標だったのではないでしょうか。

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藤原氏はこの道を使って青森、北海道、さらにはその先の大陸とも繋がる壮大な交易をしていた事が最近の研究で明らかになりました。その北方交易ルートの鍵となる品が弓矢の矢羽に使われた、ある鳥の羽でした。藤原氏の北方交易ルートを追いました。

京都の時代祭、ここに藤原氏の北方交易を探る手がありました。この祭りでは時代ごとの風俗を再現した行列がねり歩きます。威厳を湛える武官、背中におう矢には特別な鳥の羽が使われていました。平安時代の武官で身分の高い人はオオワシの羽を使いました。

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オオワシは主に中国東北部やロシア東部、北海道に生息する鳥です。平安時代、珍重されたのはその尾羽です。大人の鳥では白ですが、若いうちは白と黒の美しい斑紋があります。東京、明治神宮、由緒ある弓道場があります。ここに今は天然記念物の為、捕獲が禁止されているオオワシの矢羽が大切に保管されています。これがオオワシの矢羽。白い地に浮かぶ斑紋は一枚ごとに異なります。

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根基に黒い斑紋のある羽は「元黒」と呼ばれました。

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都の人々は斑紋で羽を分類し、名前をつけて愛でていたのです。此の細めの羽は「石打」14枚ある尾羽の両端にあり、オオワシはこの羽で地面を打ち、飛び立ったので此の名前が付けられました。羽は複雑に分類され、どれだけ貴重な物をもっているか、貴族、武士は競い合いました。此のワシの羽を都に贈っていたのは藤原氏だという記述があります。鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」に依れば、藤原清衡の息子基衡が京都の物資にワシ100羽の羽とアザラシの皮60枚を送っています。アザラシの皮は武士の馬を飾る装飾品をして珍重されました。藤原氏はこうした北方の特産物をいったいどうやって手に入れていたのでしょうか。

その重要な輸送路となったのがここ中尊寺の境内を走る道、すんわち奥大道です。中尊寺に伝わる国宝の曼荼羅、塔の姿を金色のお経の文字で表した大変珍しい物です。

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国宝 金光明最勝王経金字宝塔曼荼羅図

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ここに奥大道に立つ笠卒塔婆が描かれてあります。金色の阿弥陀如来のいる笠卒塔婆、この笠卒塔婆が奥大道にはおよそ100メートル毎に建てられています。仏たちが守るこの道は藤原清衡が最も力をいれて整備した街道です。

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平泉を中心に南北にのび北方の特産品が運ばれていた奥大道。北は250キロ先の外ヶ浜、現在の青森まで達していました。

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東北新幹線、青森駅の傍で2003年ある遺跡が発見されました。ここから藤原氏とこの地の特別な関係を示す品が発見されたのです。特に注目されたのが「かわらけ」です。

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平泉では政治に関わる宴で使用されていた此の器、それが大量に見つかったことから藤原氏の関係者が此処に滞在していたと考えられます。その目的がかっては川幅の広かった新城川にありました。オオワシの羽などは一旦青森に集められ、平泉に渡っていたのです。ではいったいどこから青森にやって来たのか。その手掛かりとなる発見が今年北海道にありました。北海道、厚真町はアイヌの人達の交通の要所でした。ここから出土した品が藤原氏と繋がりのあることが確認されたのです。それは50年以上前に発見されながら用途が分からない謎の壺でした。ギザギザに欠けた口は意図的に打ち砕かれた様です。こうした壺は全国的にも極めて珍しい壺です。それが今年、平泉で同じ状態の壺が見付かっていた事が分かりました。壺は二つとも口がギザギザに欠けています。こうした壺は平泉では大事な経典を入れて地中に埋め、極楽往生を願う為に使われました。そうした習慣を持つ藤原氏所縁の人達が此の地で暮らしていたと考えられます。

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では何故この北海道まで来ていたのでしょうか。中世のアイヌの人々を描いた絵です。男達の肩や腰を沢山の羽が飾っています。オオワシの羽だと見られます。アイヌの人達のオオワシの羽、それを藤原氏は銅椀などと交換し手に入れていたと言います。

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では藤原氏がアイヌの人達から手に入れていたオオワシの羽は何処から来たのか。そのヒントとなる古文書が保管されています、「中尊寺建立供養願文」。藤原清衡が中尊寺を建てた時、その思いを記した物です。そこには清衡自らの影響力の及ぶ地を記しています。「大陸やサハリンに住む民が私に従っている」。藤原氏は大陸の人々とも繋がっていたと言うのです。あのギザギザの壺が見つかった北海道・厚真町、ここに二年前研究者を驚かせたある出土品が保管されています。藤原氏の時代、12世紀の遺跡から見付かった「矢じり」、その形が極めて独特だと言います。日本の一般的な矢じりと比較してみると一見ほとんど変わりません。しかし断面を見ると一般的な矢じりが単純な楕円なのに対し、今回見っかった矢じりはZ字形をしています。それが昨年、同じ形の矢じりが発見されていた事がわかりました。東から遠く1000キロ離れたロシア、アムール川流域のナデジンスコエ遺跡です。

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ナデジンスコエ遺跡の矢じり、厚真町の矢じりと比べると断面は確かに同じZ字形をしています。しかも此の形の矢じりは世界でもアムール川流域にだけ出土している物でした。この事実は東を経由して平泉と大陸を結びつける一本の道筋を浮かび上がらせました。オオワシの羽を求めた藤原氏、その眼差しは平泉から青森を経て北海道へ、そして遠く大陸をも見据えた物だったのです。

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初代藤原清衡はどの様な思いで平泉を築いたのでしょうか。清衡の思想の大事なポイントがあります「仏国土」。仏が守る、平和で豊かな国土と言う意味です。清衡はこの「仏国土」を平泉・東北に打ち建て様としました。世界文化遺産に登録されたのも此の思想が高く評価されたからなのです。次は清衡の思想、驚くべき人生に迫っていきます。




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             平泉  よみがえり黄金都市   引用










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2012年01月07日

初寄せ植え 2012

今日ははな*いとし*こいしさんが今年初めての開店日。早速行ってきました。ジュリアンにアネモネ・・・春を感じさせるお花が並んでいます。

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昨年植えたシキミアを此方に植え替え、新たに八重のシックなコーヒークリームを後ろに植え込み。前には正に名前の通りのプリムラ アコーリス ふわふわとロータス・プリムストーンを植え込みました。ふわふわのピンク色の可愛らしい事、シックな中にも乙女心を演出してくれています。

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今年初のアネモネ「絢花」、沢山の蕾を持っていますのでこれからの開花が楽しみです。アネモネ「絢花」を後ろに植え込み。真ん中にロータス・プリムストーンを植え込み。とてもお気に入りの赤とピンクのプリムラ ロココ姫を植え込みました。紅白の配色で今年一年の幸せに祈りをこめて・・・

今日は晴天、肌を射すような寒さも心地良く感じました。お花をさわっていると幸せな気持ちになります。

今年も沢山の美しい花々に出会えます様に!!




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2012年01月06日

ウィーン・フィル ニューイヤーコンサート 2012

美しい花々で飾られたウィーン楽友協会で開催されるニューイヤーコンサートを毎年楽しみにしています。美しい楽友協会の装飾、美しいバレエ、そしてユーモアを交えた素晴らしい演奏に何時もうっとりとしてしまいます。

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今年のソ連生まれのマリス・ヤンソンス氏の指揮で行われました。

第一部

最初の三曲はウィーフィルが今迄演奏していない曲が演奏されました。

祖国行進曲(ヨハン&ヨーゼフ・シュトラウス)

ワルツ「市庁舎舞踏会でのダンス」(ヨハン・シュトラウス)
ウィーン市庁舎での最初の舞踏会で披露されました。代表作「美しく青きドナウ」の主題が現れては消えるヨハン晩年の傑作。市庁舎では今なお舞踏会が行われているそうです。

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さぞかし素敵な舞踏会なのでしょうね。

ポルカ「あれか、これか」(ヨハン・シュトラウス)
自分のオペレッタから旋律を引用して数々のポルカやワツルを作曲したヨハン。此の曲は喜歌劇「愉快な戦争」び旋律を用いています。

トリッチ・トラッチ・ポルカ(ヨハン・シュトラウス)
ウィーン少年合唱団の歌と供に演奏されました。ウィーン少年合唱団が登場したのは1998年以来14年振りのこととか、とても美しい歌声でした。

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ワルツ「ウィーンの市民」(ツィーラー)
ウィーンの人気作曲家ツィーラーの作品。シュトラウス兄弟のライバルであったそうです。此の作品はヨハンの「市庁舎舞踏会でのダンス」と同じ舞踏会で初演されました。

アルビオン・ポルカ(ヨハン・シュトラウス)
アルビオンとはイギリスの古称で、この作品はビクトリア女王の夫に献呈されました。ロンドンで行われるオリンピックにちなんで選曲され、コーブルク宮殿で初演されました。

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ポルカ「騎士」(ヨーゼフ・シュトラウス)
ヨーゼフが大好きだった乗馬を題材にして作曲されたポルカ


第二部

悪魔の踊り(ヘルメスベンガー)
ヘルメスベンガーは19世紀末のウィーンで活躍した作曲家。ウィーン・フィルのカンサートマスターを経てマーラーの後任として指揮台に立っています。

ポルカ「芸術家の挨拶」(ヨーゼフ・シュトラウス)
今年創立200年を迎えるウィーン楽友協会をお祝いするプログラム。ニューイヤーコンサートの会場でもあるウィーン楽友協会の建物の完成は1870年の事、オープンを祝う舞踏会の為にヨーゼフは此のポルカ・フランセーズを書きました。

ワルツ「人生を楽しめ」(ヨハン・シュトラウス)
楽友協会の建物の完成を祝って作曲された曲。ベルヴェデール宮殿でバレエの映像と供に演奏されました。

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今年のバレエは衣装もダンスもとても斬新でした。

シュペール・ギャロップ(ヨハン・シュトラウス父)
シュトラウス父の作品の中で当時最も人気を集めた物の一つ。ウィーンで評判だったロッシーニの歌曲「ウィリアム・テル」の旋律を巧みに引用しています。

コペンハーゲン蒸気機関車のギャロップ(ルンビー)
ルンビーはデンマークの作曲家。シュトラウス父に大きな影響を受け数多くのポルカやギャロップを作曲「北のシュトラウス」と称されました。
演奏家が鉄道員の扮装をし、とてもユーモラスに演奏されました。小さなお子さんでも胸をワクワクさせるのではないでしょうか。

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か冶屋のポルカ(ヨーゼフ・シュトラウス)
ヨーゼフの最も有名なポルカ・フランセーズ。指揮者の方がみずから鉄床をうって演奏されとても愉快な作品です。ウィーン少年合唱団の歌と供に演奏されました。

カドリーユ「カルメン」(エドゥアルト・シュトラウス)
シュトラウス兄弟の末っ子エドゥアルトは二人の兄と供に作曲家、指揮者として活躍しました。当時ウィーンで流行した舞踏会音楽カドリーユにはヒット曲の旋律が多く用いられました。此の作品はウィーンでも大人気を博した歌劇「カルメン」の名旋律を引用してあります。

バレエ音楽「眠りの森の美女」からパノラマ(チャイコフスキー)
バレエ音楽「眠りの森の美女」からワルツ(チャイコフスキー)
ロシアの指揮者ヤンソンスならではの選曲です。

ピチカート・ポルカ(ヨハン&ヨーゼフ・シュトラウス)
しばしば演奏旅行でロシアを訪れたシュトラウス兄弟は旅先で数々の名曲を生みました。この可愛らしいポルカ・フランセーズもその様な中に生まれました。

ペルシャ行進曲(ヨハン・シュトラウス)
ペルシャの国王に捧げられた此の作品もロシアへの演奏旅行で演奏されました。

ポルカ「燃える恋」(ヨーゼフ・シュトラウス)
1862年、兄ヨハンが結婚し、翌年には弟エドゥアルトも結婚を控えていた兄弟の幸せを喜んだヨーゼフが書き上げた恋の情熱を秘めたポルカ。
グスタフ・クリムト「接吻」の絵画の前でバレエが踊られました。

ワルツ「うわごと」(ヨーゼフ・シュトラウス)
コンサート12回目の登場。
悪夢にうなされうわごとを発する状況から作曲のアイデアを得たとされる作品、何でも音楽にしてしまうシュトラウス兄弟ならではの発想です。

ポルカ「雷鳴と電光」(ヨハン・シュトラウス)
人々が恐れおののく雷をスリリングながらもユーモアに描いたヨハンの最高傑作。


(アンコール)
チック・タック・ポルカ(ヨハン・シュトラウス)
大人気を博した喜歌劇「こうもり」から”時計の二重唱”の旋律を用いた作品。曲の終りに指揮者が大きな時計を止めるユーモラスな演出がありました。

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ここで新年の挨拶がされました。遥か遠くのウィーンでの新年の幕開け、何時も感慨深げに思います。

ワルツ「美しく青きドナウ」(ヨハン・シュトラウス)
代表作の此の曲、聴いていると思わず身体がリズムにそって動いてしまいます、とても素敵。
此方の演奏ではバレエが披露されました。

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ラデッキー行進曲(ヨハン・シュトラウス)
観客が一体となって拍手をし演奏は盛り上がります、おもわず拍手をしてしまいます。

会場は拍手喝さいの渦となり、素晴らしい演奏は幕を閉じます。
とても素敵でした。



      ウィーン・フィル ニューイヤーコンサート 2012 引用

















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